小学生のころだ。授業と授業の間には休憩がある。一時限目と二時限目、三時限目と四時限目、五時限目と六時限目の間は十分だが、昼休みの時間は一時間、二時限目と三時限目の間は二十分あった。たぶん今でも、どこの小学校も似たようなものだろう。

 

今の僕はにとって、ニ十分の休みは、ニ十分「しかない」休憩時間に過ぎない。でも当時の僕にとっては、ニ十分「も」ある休憩時間だった。

 

授業が終わって、張れていれば、一分と立たないうちにボールと道具を持ち出して校庭に行き、遊ぶ。たっぷり十五分は遊んだ後に、怒られないようにチャイムが鳴る前に戻り席に着く。雨が降っていれば、おとなしく本を読んだり、どたばたと教室の中を同級生たちとはしゃいでいた。

 

ニ十分という休息時間は何でもできる長い時間だった。ニ十分もあるぞ、何をしようと思える時間だった。それが放課後であろうと、布団に入る前であろうと、価値は変わらなかった。それだけあれば何でもできた。

 

昔のニ十分も、今のニ十分も観測の基準は変わらない、絶対的なものだ。となれば、変わったのは僕の感性だ。今の僕はニ十分の休みどころか、一月休みをもらっても、「たった」一月の休みでしかない。

 

原因は、効率の良さを求める欲望だ。人間子供が大人になっても、一出来ることが三、四になる程度で、十出来る様になる人はそうない。なのに僕は十どころか百を求める。大人になるにつれ得た知識で、出来る人や手段を知っているからだ。

 

身につけた知識はしかし、半端に結果だけを知っているものばかりだ。なまじ結果だけ知っているから、過程を無視して短時間で結果を出すことを求める。それが相対的に時間の価値を下げている。かといって知った知識を積極的に忘れることも難しい。となれば、重要なのは己の中での分別のつけ方か。

 

そこにあるのはやはり嫉妬と劣等感。周りと同じか、優れていたいと願う醜さ。ともあれ、経験したことがないから、無駄に理想が高くなっている気がする。あきらめるために失敗することを覚悟して、手を出してみるのも一つの手か。やってみよう。